第18回 奥

泰西名画に猫を探せ!

作家 多胡吉郎

 フジタが押しも押されもしない世界の「猫画家」であることは、先に述べた。近代の西洋絵画を見回すと、ルノワールを筆頭に、猫を愛し、画面に登場させた画家はそれなりにいる。フジタもルノワールも少女像を多く手がけた画家だが、近代の家庭生活に絵の対象が及べば、猫が少女と一緒に描かれるのは、至極自然なことのように思える。
 ところが、いわゆる泰西名画、しかも印象派以前のクラシックスのなかを探ってゆくと、どうも思うように猫の絵に出会えない。いや、正直を言えば、猫は伝統的に、どうも邪(よこしま)なイメージを与えられているらしいのだ。少し調べてみたところでは、聖書や神話の象徴学において、百合は純潔、犬は忠実、そして猫は怠惰、好色など悪の象徴とされるという。日本の諺にも「猫は3年飼っても3日で恩を忘れる」というものもあり、こういう猫へのマイナス・イメージには、洋の東西を超え共通するところがあるようだ。
 15世紀後半にフィレンツェで活躍したドメニコ・ギルランダイオの「最後の晩餐」(1486頃 サン・マルコ教会所蔵)では、同名のタイトルを冠したダ・ヴィンチの傑作に似た、横並びのいかにもの構図ながら、イエスに向き合って坐るユダの背後に、猫が描かれている。明らかに、裏切りの隠喩である。邪悪さの象徴として、猫は登場しているのだ(そのわりにはどこか可愛らしい猫の姿である!)
 18世紀後半に描かれたゴヤの「猫の喧嘩」という絵でも、どう贔屓目に見ても、猫は負のイメージで登場させられている。欲望の赴くままに争う、醜悪さの象徴としてである(こちらは少しも可愛くない。余談だが「猫」と「描く」は、老眼には区別のしんどい、ストレスを強いるよく似た漢字だ!)。
 私の知人女性に「猫姫」と渾名されるたいそうな猫好きがいて、自宅には7匹の猫を飼い、猫グッズなどコレクションも半端でない熱の入れようなのだが、この猫姫様にしても、西洋古典名画のなかの猫探しは、それこそ「猫の子1匹もいない」と、はなから諦めてしまっている。
 ニャンとなれば、「古代エジプトでは神として崇められた猫が、ユダヤの出エジプトを経て、ヨーロッパのキリスト教世界では反発されたから」だそうだ。さすがに地球史、世界史を猫股?にかけたその道の博識ぶり。こちらは己の無学を恥じ、猫の前の鼠と化すばかり……。
 という訳で、私も長く泰西名画の古典にまともな猫絵なしと、このように思い込んでいた。だが、近頃になって、大いなる発見をしたのである。禍々しいイメージを離れて、猫が描かれた名画が存在するのだ。気づきを与えてくれたのは、ほかでもない、ルーベンスの宗教画であった。キリスト教的価値観を奉じたはずの絵のなかに、従前の負の記号とは違う意匠をまとって猫が登場していたのである。 


 ルーベンスのその絵は、1628年に完成したとされる「受胎告知」――、アントワープのルーベンスハイスが所蔵する。天使ガブリエルが聖母マリアに、神の子イエスを身ごもったことを知らせる「受胎告知」は、歌舞伎十八番ではないが、宗教絵画を代表する名場面のひとつであり、多くの画家たちによってとりあげられている。
 天上から降臨し、まだ宙に浮く天使ガブリエル。やはり天から差しこむ強い光。光のなかの白い鳩。純潔の象徴としての百合の花……。聖霊によって処女マリアが懐胎する瞬間を、「決まり事」となるイメージを重ねて表現する。ところがルーベンスのこの絵では、ガブリエルのほうに振り返るマリアの足元に、猫が丸くうずくまっている。どうやら、キジ猫という、灰色の地に黒の島模様の毛が浮く種類のようである。
 ルーベンスにはもうひとつ、有名な「受胎告知」がある。ウィーンの美術史美術館が所蔵するもので、1609年に制作された。この作品では、天使ガブリエルは地上に降り立ち、膝をかがめてマリアに対峙する。構図的には、こちらの方がオーソドックスであるとされる。そしてここがポイントであるが、この伝統的「受胎告知」では猫は登場していないのだ。
 ルーベンスハイスが所蔵する「受胎告知」は、もともと、ウィーンの作品を描いた翌年に制作に着手していたとされる。だがルーベンスは右半分を描いたまま放置し、20年近くもたった1628年から29年にかけて、マドリッド滞在中に左半分を描き、併せてマリア像を修正して絵を完成させたという。
 はたして猫がいつの時点で描かれたのか正確にはわからないが、より独創的、オリジナルな構図をもつこのセカンド・バージョンのほうに猫が登場するのは、何とも興味深い。なにせ、ダ・ヴィンチであれ、ボッティチェリであれ、エル・グレコに至るまで、世に傑作と伝わる巨匠たちの「受胎告知」には、猫は描かれていないのだ。
 ルーベンスは何故、通例に逆らうように、「受胎告知」に猫を登場させたのだろうか――。


 旧約、新約と合わせ、聖書のなかに、犬は都合54回登場する。それに比べ、猫は旧約聖書に1度登場するのみであるという。この数字を見ただけでも、伝統的に、キリスト教がいかに猫を避けてきたかがわかる。
 ところが、である。ルーベンスの猫絵によって尻に火がつく恰好となって、ともかくも他の画家たちの「受胎告知」に猫が登場しないものかどうか、それこそ、猫の手も借りたいという勢いで調べまくってみたのである。すると、いくつかの猫付き「受胎告知」に出会った。いくつかを、年代順に紹介しよう。
 まずは、ヤン・デ・ビアの「受胎告知」(ティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵)、1520年頃の作とされる。ヤン・デ・ビアは、今では殆ど忘れられた存在だが、16世紀前半にアントワープで活躍した画家で、生前はそれなりの人気作家だったようだ。この絵の天使ガブリエルも、宙に浮いた状態だが、彼の後方、次の間との境となる段になった所に、端然と座る白い猫が描かれている。目を閉じ加減にした静かな表情は、日本人の目からすれば、ちょっと稲荷神社のお狐さんを思わせもする。
 やりかけの編み物が描かれたのは、それまではひとりの乙女だったマリアの日常の一景として登場したわけだが、猫もまた聖母となる前の日々を共に暮らした相手というわけだろうか。その割には、聖霊が身ごもる秘儀の瞬間に立ち会い、見届ける、司祭か賢者のように泰然としている。古代エジプトでは神だったという、異域での遠い記憶までをも引きずっているかのような居住まいではないか。
 続いては、16世紀イタリアの画家、ガロファロの「受胎告知」を見よう。1528年の作で、ローマのカピトリーノ美術館が所蔵する。鮮やかな色彩と洗練された味わいが特徴の作品だが、天使ガブリエルと向き合うマリアの後方奥、画面右端に猫が半身ほど姿を見せている。さりげない登場ぶりだが、さりとて意味もなく顔を出すわけがない。寓意と象徴づくしの画面構成のなかで、猫も何がしかの意味を負っているのは間違いないはずなのだ。
 同じ1528年に描かれた、ヴェネツィアの画家、ロレンツォ・ロットの「受胎告知」を見よう。ロットは宗教画の他に肖像画もよくした画家だが、この「受胎告知」は個性的というか、宗教的テーマを扱いながら宗教色を粉砕してしまうような、強烈な世俗のパワーに満ちている。
 ガブリエルは、まるでウルトラマンか何かのように大仰なポーズでマリアに向かい、聖霊による処女懐胎を告げる。「シュワッチ」というかけ声が聞こえてきそうだ。マリアのほうは、「ええっ、そんな!」とでも言いたげに、顔を背け、手をあげる。およそ世にある「受胎告知」のうち、こんな恰好と表情をしたマリアは他にはあるまい。
 そして、ガブリエルとマリアの間には、これまた大天使の力技を目の当たりにして驚いたと思しき猫が、慌てて身をよけ、横跳びに跳ねている。しかもその位置が画面中央下なので、絵全体を覆う緊張と躍動感を集める「臍」のような役割までをも演じているのだ。


 宗教画のなかに、一般には禍々しいとされた猫がどうして紛れ込んでくるのか――?
 どうやら、聖書に伝えられた正伝ではないものの、イエス・キリストが馬小屋で生まれた際、同じ厩(うまや)で猫も出産したという俗説が語り継がれてきたらしい。いつ頃から人々の口にのぼるようになったのか、詳しいことは不明ながら、この伝説があるゆえに、キリスト誕生の原点となる「受胎告知」の絵で、時に猫が同席することになったというのだ。権威ある正伝の大河の本流に、いつしか俗伝=民間伝承の異なる小川が流れ込み、混ざり合うことになったのである。
 そして、もとは小川にのって運ばれてきた猫が、いよいよ本流の大河においても、花と咲き、黄金の輝きを見せる時がくる。その担い手こそが、16世紀後半にイタリアで活躍し、多くの宗教画を残したフェデリコ・バロッチだ。マニエリスムからバロックへの橋渡しをしたと言われる大家である。
 バロッチの「受胎告知」のうち、比較的よく知られているのは、ベルージアのサンタ・マリア・デリ・アンジェリコ聖堂が所蔵する絵で、1592年から96年頃の作とされ、そこでは、マリアに訪れたドラマに我関さずと言わんばかりに、猫が画面左下隅にすやすやと眠っている。いわゆる眠り猫だが、何とも可愛らしい。求婚者のようなガブリエルの動きが大仰な分、猫の静寂、穏やかさが際だつ。画面の隅ながら、申し分のない添え役を果たしている。
 実はバロッチにはもう1点の「受胎告知」があって、やはり同じ頃に描かれたものらしいが、こちらの絵では、ガブリエルは右手を天に突き立てており、その動きに合わせるかのように、猫はかっと目を見開き、こちら(絵を見る者の側)に向けている。「あら、まあ!」とでも言いたげな表情である。これはこれで、猫は印象的な視覚上の支点となっている。
 2点の「受胎告知」にともに猫が登場し、しかもあたかも対になるような構図をとるのは、バロッチにとって、「受胎告知」が当然の如く猫とともに描くテーマであったことを示している。いや、実を言えば、バロッチにとって猫は、「受胎告知」に限られた素材ではなかった。宗教画を中心とするその画業の重要なところで、猫が登場させられているのだ。
 ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する「聖家族(猫の聖母)」――。1575年の作と伝えられ、明るい幸福感の漂う聖家族の絵だが、幼子イエスを抱く聖母マリアの足元に、後ろ足で立つ猫が描かれている。猫は、やはりマリアに抱えられた洗礼者ヨハネが手にした鳥(ゴシキヒワ。受難の象徴とされる)に関心を向け立ち上がったように見えるが、それまで母の乳を吸っていたイエスは、その様子に思わず乳を離し、視線を猫へと向けている。何とも微笑ましい光景のなかで、猫が重要な役どころを演じている。
 「受胎告知」、そして「聖家族」――、どちらも聖母マリアにからめて猫が登場する。どうやら、イエス誕生の厩の逸話をもとに、バロッチは豊穣や母性の象徴として猫を扱っているらしいのだ。
 さて、天下の大真理を発見した如くに、私は足取りも軽く、かの猫姫様のもとを訪ねた。バロッチの猫絵を見せながら、いつになく饒舌に口を切る。 「エジプトからヨーロッパへと流れたオリエント文明のDNAとして、猫が登場しているんじゃないですかね。クレオパトラも猫好きだったのだから、シーザーやアントニーだって猫にほだされたかもしれない。西洋社会にもぐりこんだ猫が、千年以上の時を経て、キリスト教芸術にまで侵入した。バロッチはそういう大きな時の流れが必然的に築いた川中島のような存在ではないでしょうか?」
 猫姫様は私の言を聞きながら、しばし無言でバロッチの絵を眺めていたが、やがてきらりと瞳を猫のように輝かせると、以下のようにのたもうた。
「何だか、大袈裟に言っているけど、あなたの論説にはひとつ、重要なことが抜けているわね。ずばりお尋ねするわ。あなた、猫を飼ったこと、ないでしょう?」
 むむ、痛いところを突かれて、私はたじろいだ。
「わたしにはわかるの。このバロッチって人、間違いなく猫を飼っていたわね。猫はね、可愛いの。たまらなく可愛いのよ。宗教が何かを押しつけてこようと、可愛いものは可愛い、そのことを知ってしまったヨーロッパ人がいたってこと。自分の作品の大事なところに、とにかく猫を参加させたくて仕方がなかったのよ。猫好きなら、当然じゃないかしら……」
 ううむ、猫姫様、恐るべし。後日、知るところとなったのだが、バロッチは膨大な数の猫のスケッチも残していたのだ。おそらくは猫と同居しながら、愛情をもって観察を続けたのだろう。
 ルネサンスは通常「人間復興」と訳されるが、猫に抱く人間本来の感情もまた、ルネサンス期よりも少し遅れて、宗教的ドクトリンを超え、本然なるもの、自然なものとして美術界に復権した。ルネサンス同様、その主要舞台がイタリアであったのも面白い。飛び火した地もアントワープで、国際貿易港としてイタリアとの交流の多い場所だった。
 イタリア語で猫は「ガット」と言い、猫ちゃんという愛称は「ミチーノ」と言う。「ミチーノ」!――ああ、この甘くやさしい響きを耳にしただけでも、猫ちゃんたちの愛らしさが目に浮かぶ。さらにくだけて言う時には、オスならば「ミーチョ」、メスならば「ミーチャ」になるという。道端で出会った猫に親しく呼びかける言葉は「ミチョミチョミチョ……」なのだそうだ。
 まさに聞こえてくるようではないか。微笑みに目を細めたバロッチが、猫を手招きしながら、それこそ猫なで声で、「ミチョミチョミチョ……」と語りかけているさまが!

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