第17回 奥

少女と画家。時のパズルを超えて。

作家 多胡吉郎

 古今東西、少女の絵を手がけた画家は少なくない。絵描きは少女に魅せられ、絵を通して私たちは少女に魅せられてきた。ベラスケスが描いた王女マルガリータは、その典型だ。画家たちは少女を通して何を描こうとしたのだろうか―? 私たちは少女の絵のどこに惹かれるのだろうか―?
 少女画の中でも、美少女決定版をあげるとすれば、ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像(可愛いイレーヌ)」(1880)にとどめを刺すことになるだろう。過去にも来日したことがあり、2018年にも再び来日が決定しているのだが、その謳い文句に曰く、「絵画史上、最強の美少女(センター)」――。絵画展(「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」)のポスターにも、このキャッチコピーとともに、イレーヌ嬢が堂々の麗姿をさらす。今風を気取ったルビの是非はともかく、美少女最強スターとしてお出ましいただいたことは間違いない。
 ルノワールといえばピンク色が重ねられた豊満な女性のヌードを思う人も多いかと思うが、少女を描いた作品も少なくない。個人的な趣味から言うと、豊満女性は苦手ながら、少女画には強く惹かれる。「ピアノを弾く少女たち」(1892)については以前に書いたことがあるが、「団扇(うちわ)を持つ少女」(1881)、「レースの帽子の少女」(1891)など、いずれも基本的には、移ろいゆく歳月の中にも移ろいを忘れたかの如く、確かな幸福の時間に生きる少女たちの輝きを描いたものである。
 ルノワールの描く少女たちは、いずれもどこか神々しいが、このイレーヌ嬢の神々しさはずぬけている。絵に描かれた時には8歳であったが、あまりの可愛らしさ、美しさは、「天使のよう」などという形容が馬鹿々々しくなるほどに絶対的、超越的だ。この女の子が、絵のモデルをつとめた後で、ままごと遊びや鬼ごっこをしたり、おしゃべりに興じたり、おやつを頬張るようなさまは、とても想像がつかない。そういう普通の女の子が人間としてもつ肉体性を離れ、永遠なる神的イコンとして超然と座している。
 父のルイ・カーン・ダンヴェールはユダヤ系の裕福な銀行家だった。イレーヌは令嬢として何不自由なく育ったに違いないが、19歳で政略結婚させられ、後に離婚、次の結婚も破綻(はたん)と、成長後の人生は平坦ではなかった。その後はナチスの台頭とともに、家族の多くが収容所送りとなり、殺されている。本人はイタリアでカソリックに改宗し、イタリア風の名前を名乗っていたために迫害を免れたが、暗く重い影が人生の後半を覆った。
 そう思って見ると、このイレーヌ嬢の絵が、何ともいたわしく、哀惜に満ちたものに思えてくる。もちろん、後世の我々と違い、ルノワールはその後の少女の運命を知っているはずはないが、この絵には、ひょっとして画家には未来を予兆する特殊能力があったのではと錯覚させるような魔力が備わっている。
 少女は、自分の一生を見通してしまったかのように、この絵の中にすべての輝きを凝結させている。その光輝のオーラを浴びて、まばゆいばかりの少女の輝きを愛(いと)おしむルノワールの気持ちが、頂点に達しているのだ。まさに神業の領域にまで……。
 ちなみに、完成したこの肖像画を受けとったイレーヌ嬢の家族は、絵が気に入らず、物置にしまっておいたと言われる。おそらく、家族はもっと普通の女の子としてのイレーヌを愛していたのだろう。 


 美術史を代表する大家ばかりを集めたようなところには、この人の名はない。だが、少女画というくくりを設けるなら、間違いなく、代表格として登場してくるだろう。ウィリアム・ブグロー(1825~1905)。
 フランスの正統派アカデミズムを極めた人なので、印象派を始めとする新潮流からすると、否定されるべき大御所でもあった。神話的な女性のヌード像などもあるが、少女画における巨匠としてファンも多く、近年再び注目が集まっている。
 「愛らしい」「可憐な」と形容されることの多いブグローの少女画だが、そう単純に可愛いとばかりは言いきれぬ気がする。いやむしろ、強烈な印象の中に、ひと筋縄ではいかない少女の多面体が刻印されているようで、割りきれなさに戸惑うことも多い。少女を描き続けたブグローとは、正統派リアリズムの装いをまといながら、実は、かなりミステリアスな画家だったのではないか。
 ブグローは好んで、田舎の貧しい少女を描いた。幼いながら、労働の現場に生きる少女もいる。「編み物をする少女」は、私の知るだけでも、1874年、1879年、1882年と繰り返し描かれた。「難しいレッスン」(1884)、「In Penitence(後悔)」(1895)、など、全身像の場合、少女は裸足だ。
 うつむき加減の面持ちから放たれる少女の眼差しには、訴えかけてくる強い力がある。見る者を釘づけにさせる何かがある。貧者の子らに寄せる社会主義思想に通じるような同情心も感じられるが、少女たちのもつ不思議なリアリティは、とてもそのようなイデオロギーの枠に収まりきらない。
 「La Frileuse(恥じらう少女)」(1879)のいたずらっぽい視線は、とてもただの無垢ではありえない。欲にからめとられた大人の女性の片鱗がすでに萌芽している。「小さな泥棒」(1900)も、ただの梨の実泥棒ではあるまい。子どもながらに、罪を犯してでもしたたかに生きる逞しき生の実像が写しとられている。ブグローの描いた少女には、間違いなく「アンファン・テリーブル(恐るべき子供たち」も含まれる。
 ブグローの描く少女画はまた、私には時に底知れぬ恐ろしさを秘めたものに感じられる。生の実像があまりにも鮮やかである分、あたかも死の淵に佇んでいるような危うさを覚えてならないのだ。生の瞬間を刻印する少女が、死の世界をも覗かせているかのような不思議な感覚である。
 とりわけ、「難しいレッスン」、1882年作の「編み物をする少女」、また「カーテシー」(1898)などを見る時、私はそうした底冷えのする不安を覚える。少女たちの動かぬ静かな微笑は、ヴィクトリア朝のイギリスで流行した「ポストモーテム・フォトグラフィー(死後の記念写真)」に一脈通じてはいないだろうか……。
 ブグローの年譜を見ていてなるほどと思ったことがある。実人生において、ブグローは5人の子どものうち4人までを亡くしている。少女を描く時、今や記憶の世界にのみ残る実子の幼年時代の輝きが蘇り、二重写しになったはずだ。
 ブグローの少女画には、そういう生と死を行き来してしまう超然とした美が、鎮魂の儀のように、厳かに祀られている。


 日本にも、少女の絵を数多く書いた画家がいた。しかも、彼の場合、複数の少女ではなく、ひたすら一人の少女、わが娘を描き続けたのである。岸田劉生の麗子シリーズがそれだ。
 5歳から16歳まで、娘の成長とともに、都合70点ほどの麗子像があるという。ある意味、美術の世界で言えば、麗子は日本で最も有名な少女なのだ。
 その中でも、特に注目したいのは1921年に描かれた「麗子微笑」である。麗子8歳、劉生が30歳の時の作だ。麗子像のうち、世評の最も高い作品でもあるのだが、単に可愛い、美しいと形容されることはなく、傑作、力作であることを認めつつも、不気味なとか、ちょっと怖いなどと付け足されることが多い。
 おそらくその一因は、劉生が与えたいくつかのデフォルメによるのだろう。例えばおかっぱ頭は、鉢か兜(かぶと)でもかぶせたようで、エジプト絵画のようだとの声もあがる。顔も横に張り出し、ちょっと古い形容にはなるがまさに「ET」並みのバランスで、コケシ人形か何かのようだ。そういう不自然さを造形に絡ませつつ、劉生は土俗的ともいえる野趣に溢れた強烈な印象を作り出している。
 劉生はこの絵を語って、ダ・ヴィンチの「モナリザ」にヒントを得たと吐露している。これは重要な証言だ。画家岸田劉生にとって、この「麗子微笑」が新たな出発点となったことを端なくも明かしている。西洋絵画の王道の頂点に聳える「モナリザ」に向き合い、四つ相撲を取るような気持ちで、劉生は麗子像に取り組んだのだ。
 劉生は白樺派との親交が厚かった。派を率いる柳宗悦は、西洋美術の紹介から出発し、ロダンから彫刻を贈られ賀としていたが、1920年代に入って、白磁など朝鮮の伝統陶磁器の美に目を開かされ、やがてそこから独自の民芸運動を切り開いてゆく。
 宗悦が「李朝」ものの、ちょっとゆがんだり、へこんだりした、作為なきデフォルメに惹かれ、土臭い意趣に健やかな美を見出したのと同様、劉生は「モナリザ」に対抗するにあたって、最も身近な存在である娘に善の光を見出し、土俗的な表現の中に独自の美を紡ぎ出したのだろう。
 麗子の写真も残っているが、劉生の麗子像はあくまで画家の理想の美なのであって、実際の娘の姿とはかなり違う。同じ画面に2人の麗子を登場させた「二人麗子図(童女飾髪図)」(1922)は、麗子幻想の際たるものだろう。
 劉生は「内なる美」を「外なる美」にするのが画家の務めと考えたというが、白樺派の理念にも通じるこうした思想が、他ならぬ麗子を描くことで深まっていったことと思われる。尽きぬ泉のように、麗子が劉生の画家としての成長源となっていたのだろう。
 娘が20歳になる頃までは描けると劉生は語っていたが、16歳の麗子像が最後となった。1929年、満州旅行からの帰路、画家が38歳で急逝したからだった。


 絵画史上最強の美少女はルノワールの「可愛いイレーヌ」であるという。だが個人的に最も忘れがたく、愛らしい少女画となると、これだ。スルバランの「聖母マリアの少女時代」(1660頃)――。
 スルバランはベラスケスと同時代のスペインで、セビリア(セビーリャ)を拠点に活躍、宗教絵画を多く手がけ、わけても聖人の肖像画に独自の境地を築いた。聖母像では、「無原罪の御宿り」を何点も手がけているが、聖母の少女時代を描くというのは、スルバランの発明であるという。
 さて、その「聖母マリアの少女時代」だが、無垢で清楚、可憐で愛らしく、一点の曇りもない。ほのかな甘さが漂うのは、スペインならではのゆえか。
 この少女マリア像には、モデルがあったらしい。1650年に生まれたスルバランの娘、マリア・マニュエラがそうだという声が強い。3度目の妻との間に設けた娘だが、マリアが生まれた時、画家は既に50歳を超えていた。
 スルバランには若い頃――1632年から33年にかけて描いた「祈る幼い聖母」という作品もあるのだが、同じく聖母の少女時代をテーマにしながら、出来ばえには雲泥の差がある。1660年頃の作品が極めつきの少女画となったのは、画家の技量の成熟もさることながら、晩年に得た娘に対する愛情の賜物であろう。
 この絵を所蔵するのはロシアのエルミタージュ美術館で、私自身は1990年、ソ連崩壊の前年に訪ねている。ダ・ヴィンチやレンブラントなど、多くの重量級の名画が惜しげもなく飾られる中にあって、スルバランのこの絵は、1点の清涼剤のように、静かに、やさしく、愛とともに見る者を受けとめてくれた。いくつかの展示室をまわった後に、この絵のところに戻った記憶がある。その時の出会いによって、私にとっての最高の少女画はスルバランと定まり、その後も変わっていない。
 2017年の今年、東京、名古屋、神戸でエルミタージュ美術館展が開かれるが、嬉しいことに、来日作品の中にスルバランの「聖母マリアの少女時代」も含まれていた。東京六本木の森アーツセンターギャラリーで、私は四半世紀ぶりにこの絵の前に立った。
 椅子に腰かけていることもあって、少女の体はいかにも小さく見える。その分、顔の表情の印象が実に強い。まばゆいような純白の肌のつやの中、祈りによる昂揚のためか、頬をピンク色に染めている。濡れるような瞳に、真実の光が宿る。黒髪であることも、私たち東洋人には親近感を抱かせる。
 懐かしくも愛らしい、スルバランの少女マリアの輝き……。少女は、いささかも変わらぬ少女のまま、迎えてくれた。私のほうは年を重ねて、体にも心にもだいぶを溜めてしまった。だが、久しぶりに出会った少女は、積もる垢を洗い流し、すがすがしい思いに立ち返らせてくれた。
 風景であれ、人物であれ、絵画は時を止め、美を永遠に刻印する。だが、時の移りやすさは、少女の場合、大人とは比較にならぬほどに速い。まさに待ったなし、半年前の服はもう着られないのだ。
 不思議な時の感覚が迫り、船にでも乗ったように揺れ続ける。絵画芸術の生きる永遠の時と、絵の中の少女が抱える移ろう流れに堰を立てたような輝きの時と、自分自身のちっぽけで、はかない時の流れとが、絡まり合いもつれ合う。
 ふと思う。少女画の魅力とは、そういう幾重にも絡んだ時のパズルから解き起こされる慰謝なのではないかと――。

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