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第13回 表
 権力と愛欲の渦中に 英国テュ―ダー朝の宮廷画家、ホルバイン

作家 多胡吉郎

 生まれ育ったのはドイツのアウグスブルク、画業を生業(なりわい)に暮らし始めたのがスイスのバーゼル、そして画家として決定的な活躍の場となった所がイギリスのロンドンだった。肖像画に独自の世界を築いたハンス・ホルバイン(1497年か98年~1543年)――。英国史の中でもひとつのピークだった、ヘンリー8世を中心とするテュ―ダー朝の宮廷画家に任じられ、王や王族の肖像画に腕を振るった。
 ホルバインが描いたヘンリー8世の全身像がある。いわゆる仁王立ち、堂々とした体躯に豪華な衣装と装身具を身にまとい、正面から描き手を見据えている。絶対君主の威厳に溢れ、力と輝きに満ちた雄姿を、あますところなくとらえている。
 実はこのヘンリー8世、とんでもない暴君で、気に入らない人物を、情け容赦もなく処刑台へと送った。生涯に6人の妻をもったが、うち2人は王命によって斬首刑に処せられた。離婚を禁じたローマ教皇庁と諍(いさか)い、カトリックを捨て新たに英国国教会を起こしてまで一緒になった2度目の妻、アン・ブリンさえも、3年後には首を刎ねてしまった。ホルバインとすればまさに命がけ、緊張の中での制作が続いたことだったろう。
 ホルバインがイギリスに渡った理由は、宗教改革にあった。バーゼルにも新教の波が押し寄せ、偶像崇拝を禁じる名目から絵画の需要が激減したのである。当時ホルバインはヨーロッパを代表する人文主義者エラスムスと親交があったが、彼の紹介でイギリスのトマス・モアを頼り、ドーヴァー海峡を超えた。
 トマス・モアは「ユートピア」の著者で、人文主義者として高名であったが、法律家としてヘンリー8世に仕え、官僚の最高位である大法官の職をつとめていた。王がキャサリン妃に愛想をつかし、女官だったアン・ブリンに惹かれるあまり、強引に離婚に踏み切りローマ教皇庁と絶縁した際、トマス・モアは廷臣として反対を貫いた。結果、ロンドン塔に幽閉され、斬首刑に処せられた。1535年のことだ。
 ホルバインが初めにイギリスを訪れたのは1526年で、2年後にいったんは大陸に戻るが、1532年には再びイギリスの土を踏む。宮廷画家に任じられたのは1536年、トマス・モア処刑の翌年だ。画家としての技量が認められたことは勿論だが、トマス・モアとは近しい存在だっただけに、この際、思いきって宮廷に飛び込むのも保身の策だったのかもしれない。
 ホルバインはイギリスに渡る前にエラスムスを描き、イギリスではトマス・モアも描いた。これらの人文主義者の巨人を描いたホルバインの絵は、真理の道を行く求道者の精神的な高さ、厳しさがよく表れていて、印象が深い。
 人文主義とはルネサンス期に登場した、ギリシャ・ローマの古典に学び、人間の尊厳を大切にした思潮である。ホルバインは明らかにこの影響を受けており、エラスムスやトマス・モアを描いた絵では、描かれる側と描く側に人文主義がこだまし合って、人間の真実を高次元に結晶させている。
 興味深いことに、暴君を前にして筆をとった際にも、ホルバインの眼差しはこの人文主義の光彩から外れなかった。世人はホルバインの衣装や小道具のディテールをリアルに描く写実の巧みさについてしばしば発言する。だが私にとって遥かに面白いのは、権力と愛欲に生きた王に注がれたホルバインの人文主義的な眼差しである。
 残虐、非情の暴君が、一方では英国を一流国たらしめるべくカリスマ的な指導力を発揮、後にスペイン艦隊を破ることになる海軍の基礎を築き、英訳聖書を印刷して広く国民がじかに読めるように差配し、さらには音楽にも通じて作曲までする(かの「グリーンスリーブス」はヘンリー8世がアン・ブリンために作曲したとの俗説まであるのだ!)。
 そういう怪物というか、わかりやすいようでわかりにくい男に、ホルバインは画家として迫る。人間を捉えようとする。それゆえにか、ホルバインの描くヘンリー8世の肖像画を見ていると、いろいろな質問が湧いてくる。 「何故、臣下や王族を次々に処刑してしまうのですか? あれほど愛したアン・ブリンまで殺して後悔はないのですか? 王とはいったい何です? 王よ、あなたは孤独ですか?……」
 直接の答えは聞こえてくるはずもない。だが、ホルバインの描く肖像画の中に、言葉にならぬ何かで描きこまれている気がする。そこには、王と御用画家という関係を遥かに超えた濃密な関係性の中、血の通った人間として脈が交わされている。
 小説でも映画でも、ホルバインの視線から、ヘンリー8世とテュ―ダー朝の華麗にしておどろおどろしい愛憎劇を見てみたいと望むのは、私だけではないだろう。