第12回 奥

後宮の奥深くに ~フォンテーヌブロー派の匿名性~

作家 多胡吉郎

 王の御前で、絢爛たる騎士道の試合が行われようとしていた。観衆の喝采を浴びて、銀色に輝く甲冑に身を包んだ馬上の騎士が登場する。とりわけ人々の耳目を集めたのは、騎士が若き王子のアンリ(後のアンリ2世)だからである。初めて臨む馬上試合であった。
 対決を前に、騎士はその試合を意中の女性に捧げるのが習わしである。人々の視線を釘づけにした王子が馬を進め、その人の前で軍旗を下げた女性は、フランス随一の美人の誉れが高いディアーヌ・ド・ポワティエ(1499~1566)であった。
 どっと沸く観衆。王子アンリはまだ12歳、ディアーヌはこの年32歳を迎える。1531年の春、この時が、アンリがディアーヌへの恋を公にした最初の時であった。若き王子の想いは、一時の戯れなどではなかった。この19歳年上の女性に、アンリは王となって以降も、やがて皮肉にも1559年に馬上試合での事故がもとで非業の死を遂げるまで、変わらぬ愛を捧げ続けたのである。
 「後宮絵画」と個人的には名づけたいほどに、宮廷の女性たちの私的空間深くに入り込み、艶冶(えんや)な女性美の世界を描きあげたフォンテンブロー派の画家たち。作者不詳という、匿名性のベールの下で彼らが筆にした美の競演のなかでも、かの乳首タッチのガブリエル・デステルと並んで、多くの名画に美貌とまぶしい肢体を晒したのが、ディアーヌ・ド・ポワティエだった。
 ディジョンのミュゼ・ドゥ・ボーザール美術館が所蔵する「化粧室の女」(「ディアーヌ・ド・ポワティエ」とも呼ばれる)の絵が、彼女の魅力を存分に伝えている。フォンテーヌブロー派の傑作のひとつながら、例によって作者不詳とされる。 ふくよかさのなかに薫る気品、優美さの奥に湛えられた静かな意志、薄いベールをまとった白い肉体が放つエロス……。ディアーヌのゴージャスな美があますところなく描かれる。
 名門貴族の娘に生まれたディアーヌは、15歳で40歳近くも年の離れたブレゼ伯爵と結婚、ノルマンディー総督夫人として富と権勢のなかに青春を送った。2児をもうけるも、17年後には寡婦となり、以後はアンリ2世の愛を独占した。宮廷にあっては、イタリアの名家メディチ家から嫁いできた王妃カトリーヌ・ド・メディシスを凌ぐ存在感を示したという。
 絵を見ていて、気になったことがある。ディアーヌは右手で指輪をつまんでいる。親指と人差し指、中指でつくる円形が、「ガブリエル・デステルとその妹」でガブリエルが指輪をつまんでいた姿とよく似ている。何がしかの寓意をもつに違いない。
 フォンテーヌブロー派の絵画を代表する2大美女が、「指輪つまみ」によってつながっているのだ。ともに王の惜しみない愛を受けつつ、しかし正妃にはなれなかったことを示しているのだろうか。
 鏡には彼女自身の顔が映りこむ。これも、意味ありげだ。そして、後方に描かれた衣装を探す女中。夫の死後、ディアーヌは黒をベースにした衣装しか着なかったというので、数ある衣装も無駄になることを物語っているのかもしれない。
 イタリア・ルネサンス期の名匠、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」にも、背景に衣装を探す少女が描かれていたことを思い出す。衣装探しは、踏襲されたイメージをもつことだろう。もしヴィーナスを暗示するのだとしたら、衣装などいくら探しても、この女性の真の美しさに合うものは、一糸まとわぬ裸身にかなわないと、そのような暗喩でもあったろうか。


 パリのルーブル美術館が所蔵する、「狩りの女神、ディアーヌ」という絵画を見てみよう。フォンテーヌブロー派を代表する作品のひとつだが、やはり作者は不詳、描かれた女性はディアーヌ・ド・ポワティエである。
 ローマ神話では、ディアーヌ(ディアーナ、ダイアナ)は月の女神であり、同時に森の女神、狩りの女神でもある。この絵は、神話上の女神に、同じ名をもつアンリ2世の愛妾、ディアーヌを重ねているわけだ。
 化粧室でのディアーヌがふくよかな上半身を晒していたのに対し、狩りの女神として描かれたこちらの絵では、9頭身から10頭身になろうかという裸身の立ち姿がすっきりとして、しなやかで、意志の力に満ち、女性ながらちょっと剽悍(ひょうかん)ささえ感じさせるほどだ。
 狩りの女神なので、犬を連れているのは当然だが、このような美神と野山を駆けるなら、犬の気持ちもさぞかし愉快なことだろう。犬は忠実の象徴でもあるが、男なるもの、これほどの女性となら、どこまでもついて行きたいと願うのが本望に違いない。
 いや、無理に犬の胸中にまで仮託せずともよい。私が言いたいのは、狩りの女神に扮したディアーヌが、カリスマ性とでもいおうか、男を牽引する颯爽とした頼もしさを備えているということなのだ。たおやかさと同時に、ディアーヌが有していたこのある種の芯の強さに、間違いなくアンリ2世も惹かれていたことと思われる。
 アンリ2世は幼くして生母・王妃クロードが病死、さらには父王フランソワ1世が神聖ローマ帝国との戦いに敗れたため、幼少期に人質として4年間、スペインに軟禁された。亡き王妃の女官であったこともあるディアーヌに、癒され励まされ、やがてなくてはならない生涯の女性に変じていったものらしい。
 ディアーヌの美貌はつとに知られ、フランス随一と讃えられたが、アンリ2世にとって永遠の女性たりえたのは、容色の見栄えを超えた深い絆があったからにほかならない。王子時代から、王の心には埋めがたい空虚がひそみ、ディアーヌだけがその冷たい影に温かな光を投じることができたのである。
 ディアーヌという女性も、並の貴婦人ではなかった。アンリ2世の愛妾となる以前から、毎日、日の出前には起床、冷水での朝の行水を欠かさず、その後、2、3時間は森や野に馬を駆ったという。若さと美貌を保つ秘訣でもあったようだが、絶世の美女は狩りの女神さながら、野性に満ち、健康、自然志向に満ちていた。
 まさに、化粧室の美神が野山を駆ける女神でもあったのだ。アンリ2世を虜にしたのも頷ける。


 ジュネーブの美術歴史博物館に、「サビーナ・ポッペア」という傑作絵画がある。フォンテーヌブロー派の手になるが、例によってこれも作者不詳である。
 サビーナ・ポッペアとは、悪名高きローマ皇帝、暴君ネロの愛した女性で、もともと人妻であったにもかかわらず、恋敵になる王妃を追放し、恋路の障害となった賢者セネカを自死させ、強引にネロと結婚して王妃の座にのしあがった。一般には希代の悪女として知られるが、芸術の分野では少々異なる様相を見せる。
 例えばモンテヴェルディのオペラ「ポッペアの戴冠」――。最後に歌われる愛の2重唱は、息を呑むほどに美しい。純粋なる愛の歓喜、官能のエクスタシー。もはや悪女なのだか聖女なのだか、わからなくなる。エゴ剥き出しの愛ではあるが、なりふり構わず貫かれた愛には、他人を寄せつけぬ黄金の殿堂が築かれている。
 この絵のポッペアも、決して単なる悪女ではない。背景をすべて殺して、透明の薄物で覆われるだけの白い裸身を闇のなかに浮かび上がらせた女神である。一種のファム・ファタル的な恋の女といえようか。
 驚くべきことに、この絵のモデルが、かのディアーヌ・ド・ポワティエであると伝えられている。
 寵愛のあまり、莫大な財産をディアーヌに惜しげもなく与えたアンリ2世だったので、人文主義作家のラブレーから「王は自分の牝馬の首に国中の鐘を吊るした」と揶揄されることにもなったが、そうした愛ゆえの傍若無人ぶりが、皇帝ネロとポッペアに比せられたのであろうか。
 ポッペアに扮したディアーヌは、首飾りなどいっさいの装飾品を身に着けていない。薄布の下は素肌のみ、思わせぶりに胸に置かれた手の下に覗く乳房――まさしく愛の美神にふさわしい、神々しいまでの輝かしさだ。
 作者不詳という匿名性のもとに、後宮の奥深くまで分け入って描いたフォンテーヌブロー派の官能美は、ここに極まると言えよう。
 それにしても、化粧室や浴室など、極私的空間に侵入した(?)画家たちは、はたしてモデルとなった王の愛妾、貴婦人の裸を実際にも目にし、スケッチしたのだろうか? もしかすると、当人たちが世を去った後に、愛の極致、美神の誉れとして、追慕する気持ちから絵が生まれた可能性もあろう。いずれにせよ、多くの人々に公開するための絵だったとは到底思えない。
 たしか古代中国での話だったように記憶するが、宮殿だか庭園だか、見事な作品が完成された後、そのあまりの美しさを王が独占するため、そして二度と他所でこのような美を創造しえないようにするため、工匠が目をつぶされる(くり抜かれるだったか?)という、世にも残酷な逸話を聞いたことがある。
 オリエントの専制国と違い、バロア朝フランス宮廷ではさすがに画家が目をつぶされるようなことはなかったろうが、やんごとない公人を描いてこれほどの放恣なエロスを放ち、時に現代絵画とみまがうまでの大胆な意匠に鮮やかな花を咲かせたのである。
 その秘儀の立会人として、また脂粉にまみれた濃密なる後宮世界の記録人として、栄誉の代償に「名前」を剥奪されたのだと、フォンテーヌブロー派の傑作に作者不詳が多いのは、こうした理由によると解したい。


 さて、ディアーヌ・ド・ポワティエを描いた作者不詳の傑作絵画を見てきたが、実は彼女を描いた実名入りの絵がないわけではない。
 フランソワ・クルーエの「化粧室の女」――。1571年に描かれ、現在はワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートが所蔵する。
 しかし、これはどうも、同名の画題をもつ作者不詳の絵(ディジョンのもの)を下絵に、パロディ化したもののように思えてならない。ディアーヌ本人は1566年に亡くなっているので、明らかに死後に描かれたこの絵は、肝心のヒロインよりも、彼女を囲む背景の人間模様のほうに主張がある。
 乳を赤子に含ませる乳母や果物をつまみ食いしようと手をのばす子供、そして後方の水差しを抱えた下女など、すべてがいかにも下世話な感じで、はっきり言えばゲスである。乳母の表情など、赤裸々な民衆の生活をユーモラスに描いた17世紀オランダ絵画のヤン・ステーンに先んじた感さえある。
 王とディアーヌの蜜月を前に、正妃でありながら我慢に我慢を重ねたカトリーヌ・ド・メディシスが、今や我が世の春とばかりに権勢をふるいだしたので、その影響下、ディア―ヌを描く画家の視線にも変化が現れたのだろうか。
 ともかくも、画家の名を「剥奪」された作者不詳の絵画の中に、宝石(ジェム)のような傑作があるのが、フォンテーヌブロー派のユニークなところだ。
 さて最後に、ロワール川ぞいに点在する古城群のなかで、最も美しいとされるシュノンソー城を訪ねよう。「ロワールの真珠」と呼ばれるこの城は、水面に映る白亜の館が夢見るごとくに美しい。権力を象徴する豪壮のいかめしさよりも、しっとりとした気品や優美さにおいて際立っている。
 アンリ2世は、愛するディア―ヌにこの名城を与えた。彼女は王の死後、カトリーヌ・ド・メディシスから追い出されるまで、ここに暮らした。その主人にして、これほどふさわしい住まいもまたとあるまい。ちなみに、あの乳首つまみのガブリエル・デステルも、ディア―ヌに遅れること約70年の後、やはりこの城の女主になっている。
 実はこのシュノンソー城にも、ディア―ヌの肖像画がある。その絵は、アンリ2世の父王フランソワ1世の寝室に飾られている。「狩りの女神、ディア―ヌ」――。1556年、フランチェスコ・プリマティッチオが描いたとされる。
 ルーブル美術館所蔵のものと同じタイトルながら、この絵ではディア―ヌは裸身ではなく、周囲に犬やら天使のような子供たちを従わせてはいるものの、主役たるべき彼女自身にカリスマ性がない。細身の裸身を描いたルーブル版にはとても及ばない。
 後宮絵画の真髄を行くフォンテーヌブロー派の名画は、やはり、作者不詳、匿名性の中にこそ、一時代を画した恍惚、陶然の美が真に輝くのである。

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