第10回 表

「聖母被昇天」ヴェネツィアの至宝、ティツィアーノ

作家 多胡吉郎

 

  人のすれ違うのがやっとという、狭い路地を進んだ。両側に聳え立つ壁に、靴音が響く。壁の向こう、建物の内部には何があるのか、いにしえの宮殿か商館か修道院か、外壁からは窺いようもない。迷宮に分け入って行く不思議な感覚。やがて、唐突にカンポ(広場)が開けた。その、迷宮の稠密さの中にぽっかりと穿たれた空間の対面に、目指す教会はあった。ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・ディ・フレーリ聖堂――。
 外観は何の変哲もない。「アドレア海の女王」という異名をもち、サン・マルコ寺院を始め、瀟洒で壮観の建物が立ち並ぶヴェネツィアにあっては、いささか見劣りのする、くすんだ印象しか残さない。だが、教会の中に足を踏み入れた途端、正面の祭壇の奥に、圧倒的な輝きに満ちて鎮座するとんでもない宝物に目を奪われた。16世紀、ヴェネツィア黄金期を生きた巨匠、ティツィアーノが描いた「聖母被昇天」である。
 金色の光に包まれて、深紅の衣をまとった聖母が中空の雲上に立ち、両腕を広げ天空を仰ぐ。この世での命を終えた聖母が、天に昇ってゆく姿である。下段にはその様子を驚きとともに見守る地上の使徒たち、上段には聖母を迎えようとする天上の神が描かれる。そして、雲を囲み、天空に顔を覗かせるおびただしい数の天使たち。幅は3メートル60センチ、高さは6メートル90センチという壁画に見まがう大きさ。堂内の気を一身に集めて、まるでこの絵が神体のようにすら見えてくる。
 これまで、幾度となく西洋の教会を訪ね、そのたびに、なにがしかの宗教画に接してきた。だが、多くの場合、宗教的教義やテーマ性に埋没してしまい、或いは香の煙や薄闇にまぎれて、美として迫る力が薄まってしまうように感じてきた。同じ宗教的なテーマでも、美術館で目にする絵画のほうに、より純粋に絵画として対峙することが可能なように思っていたのだ。
 だが、目の前の輝く絵画は、圧巻の迫力に満ちて、仰ぎ見る者の心を射る。感動に胸を熱くさせる。構図、色彩構成、どれをとっても実にドラマティックで、天に昇る聖母の動きに収斂しつつ、絵にみなぎるすべてのベクトルが上に向かう。それ故、神々しさが聖なる力となって放射され、見る者の胸に昂揚感が湧き上がる。宗教画でありながら、どこか宗教画を超えてしまうのである。
 あまりにも劇的で、生々しい感動に満ちた作品は、完成当初、人々を当惑させた。ティツィアーノが「聖愛と俗愛」という作品で描いた裸身のヴィーナスと同じ女性を描いたとか、高級娼婦がモデルだとか噂される始末で、作品の依頼主であったにもかかわらず、教会は絵を受け取るかどうか、躊躇したといわれる。ティツィアーノの絵の前衛性を示すことはもちろんだが、そこに留まらぬ本質的な問題がひそんでいる気がしてならない。
 1861年11月、ひとりのドイツ人がヴェネツィアを訪ね、この絵の前にたたずんだ。作曲家のワーグナー。上演の目途が立たず失意の中にあった彼は、この絵に強烈な印象を受け、その感銘が、一度は筆を折った楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の作曲を完遂させる原動力となった。
 その後、ワーグナーはヴェネツィアの魅力の虜となり、しばしば訪問し、最後はこの地で没することになるが、ティツィアーノの「聖母被昇天」に関する、もうひとつの逸話がコジマ未亡人によって伝えられている。それは、究極の愛と死を描いた「トリスタンとイゾルデ」の作曲に、この絵が霊感を与えたというもので、ワーグナーは「アサンタ(被昇天)は聖母ではない。愛の浄めを受けたイゾルデだ」と語ったというのだ。
 ワーグナーの直観は、ティツィアーノの絵の本質を裏打ちしている。聖母でありつつ、ここに描かれたのは、まぎれもないひとりの女なのだ。濁りない愛を胸に抱えながら、この無垢にして敬虔な女は天に昇ってゆく。そのドラマティックな奇跡の瞬間を、ティツィアーノは描きたかったに違いない。
 そこには、官能性までが匂い立つ。傑作「ウルビーノのヴィーナス」を始め、ティツィアーノはやはり女を描かせてこそ、その天分をいかんなく発揮する。彼にとって、聖母とヴィーナスは表裏一体、突き詰めれば、ともに女ということに尽きようか。
 1576年、ティツィアーノはペストによって80年を超す長い生涯を終えた。遺体は遺言によって、「聖母被昇天」が飾られたサンタ・マリア・グロリオーザ・ディ・フレーリ聖堂に埋葬された。死してなお、ティツィアーノはこの絵とともにある。

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