第1回 表

ロンドンでフェルメールを独り占め

作家 多胡吉郎

 巨大な円柱が並ぶファサードから中に入ると、私の足は決まってある場所へと向かった。ロンドン、ナショナル・ギャラリーは北翼(ノースウィング)の2階、オランダ絵画を収蔵した一角に私の目ざすその部屋はあった。
 途中、いくつかの大きな展示室を抜けて行く。広々とした空間に、レンブラントだけでも優に10を超す作品が並ぶ。巨艦のような部屋が接し合う隙間に、まるで秘密の隠れ家のように、こじんまりとした展示空間が設えられていた。
 ロンドンで知人と会う用事ができると、私はその場所を指定して相手の都合を聞いた。相手に異存がなければ、約束時間の1時間前にはその部屋に行き、ひとりそこにすごす。ひとり、と記したが、心情的には正確でない。待ち時間を、私はその部屋の「主人」と、まるで最愛の恋人との逢瀬を楽しむかのようにすごすのだ。
 主人とはすなわち、フェルメールである。フェル様!と、個人的にはそうお呼びしたいほどの憧れの画家だ。ナショナル・ギャラリーのその展示室には、最晩年の傑作「ヴァージナルの前に立つ女」と「ヴァージナルの前に坐る女」の2点が、並んで掛けられていた。私は誰に邪魔されることもなく作品の前にたたずみ、フェル様を欲しいままにする。黄金のような至福の時間が熟れてゆく。
 1999年から10年間、私はイギリスに暮らした。初めの3年間はNHKの駐在員としてであったが、帰国命令を拒んで独立し、かの地に留まって文筆の道に進んだ。英国生活の中で得たものは計り知れないが、こと美術に関する限り、ナショナル・ギャラリーには世話になった。ヨーロッパ美術史の大河の流れを辿る鑑賞の王道はもとより、待ち合わせ場所としても再三再四、利用させてもらった。しかも、かのフェルメールの部屋でである。
 実はナショナル・ギャラリーを始め、ロンドンの公立の美術館や博物館は、原則御足が無料になっている。テイト・ギャラリーも大英博物館も、特別展でない限りはタダ見原則が貫かれる。ただし、寄付はいくらでも歓迎する。
 美の殿堂、知の殿堂に迎えるに貴賤の差を問わず、懐に余裕ある者の志に期待するとは、名画も素晴らしいが、この公共に関する精神も見事の一言に尽きる。私はこのイギリスの公共哲学のお蔭で、懐具合を気にすることなくナショナル・ギャラリーに通い、好きなだけ名画を鑑賞することができた。
 イギリスには5点のフェルメール作品がある。エディンバラにある1点を除き、他はすべてロンドンにある。郊外のケンウッド・ハウスには「ギターを弾く女」がある。バッキンガム宮殿に付属するクイーンズ・ギャラリーにも「音楽の稽古」という作品があるが、ここは夏期のみの限定オープンなので、いつでも鑑賞できるわけではない。私も英国生活を引き払う前に、心残りのないよう、ここのフェル様にも対面してきた。ロンドンのフェルメールが、みな音楽に関する作品であるのも面白い。
 ナショナル・ギャラリーの2点の絵は、どちらもヴァージナルを弾いていた女が来訪者に気づき、こちらを向く構図である。ひとりは立ち、ひとりは座している。こちらを向く体の向きは左右対称をなす。おそらくは対として描かれたように思える。
 30数点しか残存しないフェルメールの作品を全踏破すべく、世界の美術館を行脚する人たちがいる。私も3分の2はまわっているので、巡礼の楽しみはわきまえているつもりだ。だが、一カ所のフェルメールを繰り返しむさぼりつくすという鑑賞法は、ロンドンのナショナル・ギャラリーでこそ可能な醍醐味であった。
 残念なことに、今ではふたつの絵はそれぞれ違う部屋に飾られている。これでは、対になっている妙味が味わえない。しかも、しばしばどちらかが他の美術館に貸し出されていると聞く。おそらくは、フェルメールの世界的人気が高くなりすぎて、両者をこじんまりとした空間に並べて閉じ込めておくのがもったいないと判断されたのだろう。
 どこに飾ろうとフェルメールはフェルメールだが、あの隠れ家のような小部屋にふたつの宝物が肩を並べていた濃密さは、再び訪れることのない過ぎし日の僥倖であったのだろうか……。まさかとは思うが、監視カメラがとらえた怪しき東洋人が何度となくその部屋に現れてはフェルメール作品にまとわりつき、しかも相手かまわず待ち合わせ場所に使っている様子を察して、懲罰のように処断された措置でないことを祈るのみである。

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